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北条 時村(ほうじょう ときむら)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権・北条政村の嫡男。 == 生涯 == 父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ、建治3年(1277年)12月、六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した。弘安7年(1286年)、8代執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛。正安3年(1301年)、甥の北条師時が10代執権に代わると連署に任じられて師時を補佐する後見的立場となる。 嘉元3年(1305年)4月23日の夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人が当時連署であった北条時村の屋敷を襲い殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失。享年64。 京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」(『実躬卿記』の4月27日条)、「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」(大外記中原師茂)と、「時村が誅された」とある。 時村を「夜討」した12人はそれぞれ有力御家人の屋敷などに預けられていたが、5月2日に「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首された。5月4日、一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死した。 嘉元の乱と呼ばれるこの事件は、かつては『保暦間記』の記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので、同時代の『実躬卿記』の同年5月8日条にも「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である。生き残った孫の煕時は幕政に加わり、第12代執権に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条時村 (政村流)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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